労働法の学習・勉強に

雇用保障

 

戦後のわが国は、雇用対策基本法や失業(現・雇用)保険法といった雇用保障にかかわる法制度を充実させてきました。

 

なぜ国が雇用保障対策を行っているのか、考えたことがありますでしょうか?

 

憲法を見てみましょう。次のような規定があります。

 

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 (憲法27条1項)

 

この規定によって、
私たち日本人は勤労をする義務とともに、権利を有していることが確認されています。

 

勤労をする権利のことを「労働権」と呼びます。

 

私たちは「労働権」を有しているからこそ、
国に対して働く環境の整備を要求することができるのですね。

 

今でこそ「失業は社会の責任であり、その責任は国が負担すべきだ」という考え方が定着していますが、
歴史的に見ればこうした考え方は当たり前ではありませんでした。

 

いやむしろ、「貧困に陥るのは本人の怠惰のため」であり、
「貧困は罪だ」といった考え方が主流だったというのが正確でしょう。

 

著名な思想家・哲学者であるミシェル・フーコーはその著書『狂気の歴史』において、
労働があらゆる貧困の解決策に結び付けられていること、
労働できない者は社会的に価値がない者であり、強制すべき対象であったことを明らかにしています。

 

なぜそうした考え方が形成されたのかについては、フーコーの著書を読んでいただきたいのですが、
「働かざる者は食うべからず」という労働規範が現在でも根強く残っていることは指摘しておかなければなりません。

 

それだけに、憲法で労働権が保障されていることは、
我々の感覚以上に重要なことであるといえましょう。

 

とはいえ、「労働権という権利があると言われても実感がない…」と思われるでしょう。

 

それもそのはずで、
労働権は、賃金請求権や年休権のように裁判所に行けば本当に実現できるような権利ではないからです。

 

まるで接点がないのに、
「僕(私)は○○会社で働く権利がある!なぜなら労働権があるからだ!」
と言い出しても実現不可能なのであり、
具体的な権利として観念することはできません。

 

それでも、労働権があるということが机の上で確認されているだけということではありません。

 

すべての者が過不足なく職に就くことができるようにすること。
これが国の責務とされているのは、まぎれもなく労働権が機能しているからです。

 

労働権は具体的権利ではないにしても、
国に対して重要な責任を負わせるだけの効力を持つ権利だと言えましょう。

 

 

 

さて、労働法学の観点から見れば、
わが国の雇用保障制度は労働権の実現を目指して展開されていることになります。

 

もう少し具体的に見ていきましょう。

 

労働権を具体的に実現するためには二つの手段があります。

 

ひとつは、「労働の機会を提供すること」です。

 

直接的でわかりやすい解決法ですが、
わが国は資本主義を採っていますから、
国が直接国民の雇用を創出することはありません。

 

そこで、雇用機会を得るための補助として職業紹介制度や職業能力開発制度等が用意されています。

 

もうひとつは、「就労が不可能になった際に提供される所得補償」です。

 

雇用保険制度における失業等給付がこれにあたります。

 

ここでは、職業訓練・職業能力開発と所得補償について見ておきましょう。

 

@職業訓練・職業能力開発

 

国による職業訓練は単なる所得補償より優れた点を持っています。

 

所得補償では失業に対して事後的な機能しか有しませんが、
職業訓練では労働能力の維持・向上とそれに伴う将来の失業防止、
何よりも労働者(受講者)の自発性を尊重することができるとされています。

 

企業は利潤の追求を第一の目的とし、労働者の教育は労務管理の一環として行われるにすぎませんので、
労働権保障の責務を果たせるのは国しかないのです。(労働権の保障責務を企業に課すことができるのかは別の論点です。)

 

わが国の職業能力開発制度は、1958年の職業訓練法の制定を契機として発展していく……はずでした。

 

しかし高度成長期(1954年〜1973年)という未曽有の経済成長を経験する中で、
企業を中心として職業訓練が進められるわが国独自の雇用慣行が成立したのです。
(いわゆる正社員の登場とも関係します。「非正規雇用」の回も参照。)

 

その後の安定期に入ってもこうした雇用慣行が維持されるばかりか、
1985年に職業訓練法を改正して制定された職業能力開発促進法(以下、「職能法」)は、
明らかに企業内訓練が中心となることを想定してつくられていました。

 

しかし現在では、わが国でも雇用の流動化が意識されるようになっています。

 

これまで公による職業訓練に力を入れず、企業に任せてきた感のあるわが国ですから、
ここにきて「誰が職業訓練をするのか」という問題が浮上してきているのが現状なのです。

 

A所得補償

 

労働者が失業という憂き目にあったとき、所得補償の機能を担うのが雇用保険です。

 

もともと失業時の所得補償機能のみを持っていた失業保険が存在しましたが、
1973年の石油ショックを機に、1974年に雇用保険として再構成されました。

 

現在の雇用保険は、所得補償と職業能力開発のふたつの機能を持っています。

 

労働権の保障という観点から見れば、
企業で就労できないのであれば国に対して雇用機会の提供を請求し、
それもかなわないのであれば相当の生活費を支給されて然るべきと考えます。

 

しかし理論は明快でも、現実はそれほど単純ではありません。

 

所得補償の議論で最もネックとなるのは、
「金を受け取ると働く意欲が減退する」という考えとの調整です。

 

冒頭でも述べた「働かない=怠けている」とする価値観は、ここでも働いているのです。
雇用保険における給付制限がその考えを反映しています。

 

ところで、所得補償との関係でベーシックインカムという面白い考え方があります。
ベーシックインカムとは、国家が最低限生活できる程度の金をすべての国民に対して支給する制度のことです。

 

個人的には賛成しかねる制度ですが、一考の価値がある考え方です。

 

最低限必要とされる金額はいくらか、病気、けがの場合はどうなるのかなど、自分でも考えてみてください。

 

 

 

2015年時点で、人に雇われて就労する者は全就労者のうちの約89%を占めています。(労働力調査を参照。)

 

労働法の世界では、労働権の保障の精度を高めるために、
「エンプロイアビリティ」(雇用されうる力)という新しい概念を打ち立てる動きが見られます。

 

失業中であっても「エンプロイアビリティ」を高めておけば安心、といったところでしょうか。

 

確かに「雇用社会」といわれて久しいですが、
私は、労働権の保障といえば「どこに就職させるか」の一点張りであることに違和感を覚えています。

 

企業で働くことが「労働権の保障」の前提で間違いはないのでしょうか?
「働くとは何か」もっと根底から考える必要があるのではないのでしょうか?

 

未来の働き方を考えた本として私が最も衝撃を受けたのは、『ワーク・シフト』です。

 

この本は、未来の働き方の暗い側面と明るい側面を非常に具体的に描写することで、
読者に今何をすればよいのかということを教えてくれています。

 

広く浅い知識しか持たないゼネラリストは「ウィキペディア」や「グーグル」に淘汰される。
企業同士の熾烈な闘争が終わりをつげ、オンライン上でさまざまな専門家の協力によってイノベーションが起こる。
大量生産・大量消費の時代が過ぎ、幸福を感じる対象がモノではなくなる。

 

どれも説得的で、現実味のある(未来のことですが)予測です。

 

何よりも印象に残ったのは、
「大人と大人の関係になろう」というメッセージです。

 

従来、企業と労働者の関係は「親と子ども」の関係に類似していました。

 

これは決して嘲笑しているのではなく、
産業革命以降に現れてきた「資本家」と「労働者」の力関係を端的にそう表現しただけです。

 

労働法はその現実を直視し、力関係を是正することを念頭に発展してきた学問でした。

 

しかし『ワーク・シフト』の著者は指摘します。今はインターネットがあるではないか、と。

 

IT革命という言葉を一度は聞いたことがあるでしょう。

 

「革命」という言葉には、
今まで当然だった概念や制度を根本からひっくり返すという意味があるのです。

 

私は、この言葉をつくった人に賛辞を送りたいと思っています。

 

なぜなら、
インターネットには労働法ですらなしえなかった「資本家」と「労働者」の力関係の是正を、
いとも簡単に乗り越える力があると確信しているからです。

 

これまで「資本家」と「労働者」を分けていたもの。
よく言われる「資本力」でも「交渉力」でもありません。それは、「情報」(受信力・発信力)です。

 

企業は情報をコントロールする力があったので、
自らが優位にあるまま、それと知られぬまま、労働者を「教育」することができました。

 

しかしインターネットの登場によって情報は万人のものとなりました。
知ろうと思えば何でも情報が手に入り、誰でも広く情報を発信することができる時代です。

 

企業に色々教えてもらう時代は終わりました。
いまこそ、私たちは企業と「大人と大人」の関係を求めていく必要があるのです。(そのためには自ら学ばなければなりません。)

 

 

 

今回は労働権という言葉から始まり、雇用保障の考え方、これからの働き方に至るまで、
労働法を超えて説明してみました。

 

それぞれ非常に圧縮して話しているので、わかりにくかったかもしれませんが、
言いたいことはひとつだけ。

 

働くとは何か根底から考えよう、ということです。

 

労働法に携わる者はどうしても現在の状況にとらわれ過ぎて、
いつしか根本から考える姿勢を忘れてしまいがちです。

 

私は労働法を学習するうちに、
問題の焦点が定まっていくのと引き換えに視野が狭まっていくのを感じました。

 

今回の雇用保障にしても同じことです。

 

労働法学者の中には労働権の保障を考えるにあたって、
「エンプロイアビリティ」(雇用されうる力)などという概念を真面目に議論しているくらいですから、
視野が狭いとしか思えません。

 

これからの働き方を考えずして適切な雇用保障は不可能であるというのは私の持論ですが、
あなたはこれをどう考えますか?